昭和五十七年八月三十一日朝の御理解
御理解第五十九節
習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはな い。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。
昨日、松本先生(英語講習会の先生)が御本を送って下さった、その中の手紙、
前略 九州滞在中はいろいろお世話になりました。親先生からおかげを頂いてからは天 地のリズムとは何かを思索し続けております。合楽の精神(スピリット)で韓国へ単身で出掛けました。教科書問題で反日感情が高まっている時でありましたが、すべてが神の恵みと大らかな気持ちで出掛けましたところ、あらゆる所で友人を見付けました。民間外交と言うところです。親先生は、本当にスケールのでかい国際人でいらっしゃいます。光昭様から、是非親先生を初め、私と河合がお世話になった皆様に宜しくお伝え下さい。
昭和五十七年 八月二十六日 松本 通弘
合楽に三日間でしょうかおられる間に、ここで言われる天地のリズムを感じるんです。 たとえば、ここからもうぶっっつけ韓国に行かれたんです。ある研究の為に、そのお届けをされておられましたが、なら、反日感情の倹悪の時、喫茶店でも食堂なんか日本人お断わりというような張紙が出されるような中にあって、ま、おいでられたんですね。ところが、今ここにありましたように至る所で友人に会った、と言われるんです。ね。もうまさに、合楽精神で韓国に参りましたと言われるが、そのリズムに乗りに乗って、ま、おかげを頂いたと、これからもその天地のリズムを、も、いわゆる思索いわゆるこれをいよいよ研究して行きたいという意味の手紙ですね。
今、聞いて頂いた通りです。うれしいですね、合楽で私はあのう一番素晴らしいという のは、いわゆる天地との交流です。その手立てが教えられてある。そこには天地との交流いわゆるリズムに乗りにのっての生き方というものが生活の中に頂けてくるんです。ね。それに、いうならば松本先生は信心の有難さというものはともかくとして、その一つの驚きをもって合楽精神というものをこれからも思索してゆきたいというふうに言っておられます。皆さんどうでしょうか。
皆さん、ならば合楽でお取次を頂いておかげを頂いた。あの事もこの事もおかげを頂い たという事だけであったら、私は本当、合楽に御縁を頂かれた値打ちはないと思う。もう、合楽でこれだけは分からしてもろうた、これだけは体得さして頂いた、ね。それが今日の私である、私一家があるというおかげを頂いて下さらなければならぬ。たった三日間でしたよ、ここに居られる、勿論三日間毎日ここのお話を頂きに、そしてまた講習会の合間合間に合楽の信心を、ま、いうならば研究されたわけでございましょう。
今朝方、私はお夢を頂いておる。というのは先だってから中村先生のお父さんでありま す、熊本の矢野先生ね、が、八十四才ですか、お亡くなりになりました。もう甘木関係の最長老の先生でございました。それが、一寸の煩いで亡くなられたということでございますが、甘木の信心を、も、それこそ受に受けて甘木の先生の信心を自分の信心の、ま、信条とし、自他共の助かりに御教導というかお取次の御用を五十年間ですかね。先だって、五十年の記念祭があちらでございましたという先生が、甘木で受けられたものは何だっただろうか。
先生があちらで御修行中、もうそれこそ天地の神様の一切が御物としての頂き方を、も 、徹底して教えられ、またそれを受けられたわけですね。ある時、お風呂当番であった。それ、先生が非常にこの熱すぎてもぬるすぎてもやかましいわれる。だから、も、今日は境内の枯葉枯れ枝を集めて、ま、それで、ま、五右衛門風呂のようなお風呂だったんでしょうね、で、お風呂を焚かれたんです。ね。ところが先生がお入りになった時に少しお風呂が熱かった。「今日の風呂はだれが焚いたか。」「矢野でございます。」「今日の風呂は熱すぎるじゃないか。勿体ない。」それこそ、ま、先生としては、も、待っとりましたと言わんばかりにおっしゃたんじゃないでしょうかね。「今日は、もう金のかかるいわゆる薪とか石炭やら絶対使いませんでした。もう枯れ枝枯葉を集めてから今日は炊きましたから」といわしゃった。そしたら、「枯葉やら枯れ枝は神様の御物じゃないな」とおしゃったちいうお話が大変有名ですが、矢野先生がこの事を非常に、いわゆる生きた教訓として頂き、おそらくは生涯そういう信心精神をもって今日の木山教会の御比礼があったんだと思います。教えられた師匠も師匠なら、それを受けて受け抜かれたね、矢野先生も素晴らしい。
私は、今朝方そのお夢を頂いた。というのが『丁度、矢野先生が離れに居られる。』こ こでいうならば、今私共が住まっておるように、ま、一つの離れになっておる。そして、そこにずっとお教会から離れまで、丁度、茶室風の茶庭の感じで飛び石がずっと敷いてある。途中から、こ、二つに分かれておる。こちらへ行けば先生が住んで居られる離れの方に、こちらへ行けば合楽教会に行けるという意味の、ま、教会と教会が隣同士にあるような感じでね。こちらへ行けば、そのあと一つの石が見付からないからと言うて、その石を中村先生達が二人で一生懸命、「この石ならどうじゃろうか、この石ならどうじゃろうか」というて、その石を探しておるようなお夢であった。
どういう事だろうかと思ったらすぐ御心眼に『月見草』を頂いた、ね。今、丁度川の土 手に咲いておりましょう、月見草。
私はそれを頂いてから、例えば私共が霊の世界に、ま、入らせて頂いたら、ま、仏教では三万億度というふうに申しますよね、大変、遠い遠い所に行かんならんようにいうけれどもね。お道の信心を頂いて、より本当な事が段々わかって参りますとね、霊様はお教会のいうなら離れに居られるようなものなんだ、亡くなられたけど。
だから、もう遠い所に居られるからというてね、たとえば、んなら私の所に、も、遠い ですから食事なんかでも、も、あの小さな車に乗せて運びます。お茶入れも、お食事の場合でも、ね。遠いからというて、お茶も持ってこん水ももってこん。御飯の用意、まだかとあちこちからいわんならんような事ではいけませんね。そばにおられるんだね。家の、ただ離れの方へお住いを変われたばかりなんだね。生きて居られる時と同じにね、奉仕を怠ってはならない。
仏様、神様といえば、も、遠い所で忘れとっても、あら忘れ取ったち、いったようなことじゃでけんね。月見草というのはね、それこそ死んだら、いうならば、ま、何と言うですかね、いうなら月の世界にでも行くような、ようなふうに離れてしまうように皆がその思いは間違いなんだ。
霊は、いうならば矢野先生であるならばね、木山教会にちゃんと鎮まりまして皆の上を 祈り守っておって下さる。だから、それを頂く側もです、いうならば離れに隠居しておられるような気持ちで霊には接しなければいけないという事であろうと思うた。と同時にね飛び石づたいに伝わってこれを行けば矢野先生の離れ家、こちらをこう行けば合楽教会、合楽教会との関わりあいをね深くいうならば祈っておられるように思いますね。
昨日の松本先生の、ま、合楽で何日間か居られた間に合楽の芯どころというものを、い うならば天地のリズムに乗るという事はどういうような事か。天地のリズムに乗りに乗って行ったらね、今ごろ、例えば韓国に旅行するという人はないでしょう。それでも合楽精神をもってまいりましたら、いたるところで知人に会ったと、ひとりでこんだ行っておられますね。
いうなら、リズムに乗りに乗って無事その旅が出来たと言われるように、また、なら、 矢野先生がいうなら甘木の御信心を、御精神を頂きぬいて今日の木山教会の御比礼があるようにね。それを頂き貫くというところに、私はね、例えばなら、今日の御理解で申しますとね。私共がいうなら霊の世界に入ったからというて遠いところへ行くのじゃない、ま、いうならば離れ家、いうならすぐ側にある隠居所に入るようなもんです。
だから、なら、その遺族の者も家庭の者もね、例えば私共夫婦たった二人の為にね、食 事の準備が出来たら、も、運んで来なければならないように、もう死になさったから運ぶ事はいらんという事はない。同じ精神をもって霊には接していかなければならないという事を思いますよね。
合楽でおかげを頂いたという事が、私は金光大神も、神も金光大神も氏子もの喜びとい う事にはならないと思うですね。合楽で教えて頂いた、これはもう自分のこれが合楽の信心が自分の血肉になって信条になったね。これだけは有難いものを頂いたとしておかげを受けて初めてね、神も喜び氏子も喜びね、金光大神もの喜びになることだと思います。皆さん、ひとつ思うてみて下さい。
合楽で何を覚えたかね、これを頂いておればねおかげの元になる。これを頂いておれば 、これはあの世までも持ってゆけるというようなものを一つ頂き止めなければね、合楽に御縁を頂いたいうなら値打ちがない。ああ、も、助からんところを助かりました、開けんところが開けましたというおかげだけではね、そういうおかげはあの世にはもって行かれません。
いうならば、合楽でね、も、いうならば天地のリズムが頂けるようになった、またこれ を限りなく研修しておると、傾倒していっておる、ね、思索しておる、その事を考え続けておるという事でしょう、ね。そういうものを得た。
成程、ここを帰られる時に見送りした先生に、今度は自分は自分の人生観が合楽に来て変わったと言われるようなものを頂いて、初めて有難いね。覚えておって、このおかげでこういうおかげが受けられたというて初めて神も喜び氏子も喜び金光大神も喜びというような、喜びに浸れるような信心を身に付けなければいけないという事を思いますね。 どうぞ